【文章講座】学校で作文が苦手だったとしても伝わる文章は書ける

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文章が苦手だという根拠を「学校の作文」に挙げるケースが散見されます。「作文が書けなかった」「いい評価をもらったことがない」から、文章が苦手だ、自分には文章が書けないと思っているわけです。でも、ほとんどはそう思い込まされているに過ぎません。少なくとも、文章が書けないというのは完全なる思い込みだと断言します。今回は、少しメンタル寄りの話になりますが、記事を通じ、文章に対する苦手意識や抵抗感を克服していければと思っています。

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文章で大切なこととは

文書は実は書くものではありません。では何かと言えば、「読んでもらうもの」です(この考えはこちらでも紹介しました。参考までに)。この認識が文章と向き合う上でもっとも大切なことの一つです。上手に書きたいとか、知性あふれる文にしたいとか、そういうある意味で自分本位な思いは邪魔になるだけです。どう書けば伝わるか、読んでもらえるかを考えることが最優先、何より重要です。

ところが、ほとんどの場合、文章は読んでもらうものと教えられた経験はないでしょう。もしかしたら読み手がいるということ自体を考えたことがないかもしれません。私自身もかなり後になって文章は読んでもらうものということを知りました。なんでこんな当たり前のことを知らなかったんだろうと、愕然とする思いでしたが、同じ思いの人も少なからずいるのではないでしょうか。

こうした基本的なことすら教えずに、原稿用紙を渡し、さあ書けと始めるのが現在の作文に関する教え方です。教え方と言いますか、ほとんど何も教えていないと一緒ですね。教えられていないことを自然とできるのは、やはり一部の人間に限られます。私を含め、多くの人は、早ければ小学校1~2年生の段階でできないと思い込まされ、そのまま年を取って大人になります。こうして、文章を書けない(と思い込まされている)人が増えていくのです。

ただし、実学について、基本的に学校に期待してはいけないと考えています。英語は9年習っても使えないとよく矢面立たされますが、それを言うなら、国語や数学、社会、理科を使えたこともないでしょう。現に文章が書けないと思い込まされているわけで。実技科目の音楽や美術にしても、学校で勉強してできるようになった得意になったという人はごく少数だと思います。苦手だ嫌いになったという人は一定数いるとしても。このことと同じで、学校でできなかったことなど、本当にまったくこれっぽっちも気にする必要はないのです。

また、私事で恐縮ですが、私自身も書くことができないと思い込まされた一人です。学校卒業後、よくライターの道に進み、現に今その仕事をしていると、自分でもまあまあ感心します。私の存在は学校の作文の出来不出来と、文章が書ける書けないはまったく別だという証明になっているでしょう(笑)同時に、私自身がその立場にいたので、まったく書けない、センスが微塵もないと嘆く人を教えるのはけっこう得意です。

学校は学校の価値観の中で、文章を評価しているに過ぎない

これは朗報と言っていいのか、あるいは悲報なのかちょっと難しいところですが、学校で書いた作文が高い評価を受けたからといって、学校を離れた場で同様に高い評価を受けるとは限らないのです。なぜか。これは冒頭で指摘した「文章は読んでもらうもの」と深く関係します。要するに、読み手が変われば、良いとする文章も変わるということです。学校では、読み手は先生で評価される文章は学校の価値観に沿ったものです。「先生」が誰であれ、学校(という社会)の価値観に沿っていれば評価され、外れていればペケをもらいます。その意味で、学校で書く文章の読み手は常に「学校(の価値観)」です。

作文などの場合、仲間、友情、チームワーク、社会貢献、家族、自然、平等、勧善懲悪、弱者救済、日本文化などを肯定的にとらえた文章は大概、評価されます。反対にこれらのことをくさしたり、学校がなかなか扱いづらいことをテーマにしたりした場合は、評価を下げます。後者のわかりやすい例として一つ考えられるのはお金です。「私はお金が大好きだ。お金があれば大概のことはできる。しかも、たくさん稼げば、高い税金を納め、社会に多く還元できる。将来は、誰よりも稼ぎ誰よりも税金を納め、社会に貢献したい。そのためにも今からお金の稼ぎ方をしっかり学びたい」みたいな文章は、評価されないのではないでしょうか(もしかしたら、今の学校はこのくらいの主張を受け入れる柔軟性があるかもしれませんが、今から20年前はありませんでした)。

たちが悪いのは「学校で評価される」評価軸が明示されていないことです。読み手、つまり先生は、ほとんど無自覚のうちに、学校特有の評価軸で文章を評価しています。評価基準が明確ではない中で文章を書かされ、良い文章・悪い文章と分類されるのですから、わけのわからないままに自分は良い書き手だ、あるいは悪い書き手だと思い込まされてしまうのです。仮に「何を書いても評価されなかった」としたら、学校の評価軸と合っていなかったからだと考えられます。

そして、ここでぜひ、学校でいいと評価された作文が、別の場所ではつまらない、ありきたりと酷評されることもあるということをご記憶いただきたいと思います。学校で良いとされていることは、言ってみれば、みんなわかっていることです。今さらそんなわかり切ったことを読まされて、面白いでしょうか。文章には発見があったほうがいいし、切り口は斬新なほうがいい。ということで、学校で評価されなかったといって、文章が苦手だと思う必要はこれもまたまったくないのです。むしろ、学校で評価されなかったほうが、面白い文章を書いていた可能性が高いです。自信を持って文章を書いてください。

美辞麗句は不要

これはややおまけに近い話ですが、文章を書くとなると、美しくかつ難しい言葉を使おうとするケースが見られます。おそらく、そういう文章が高尚で良い文章だと思い込んでいるのでしょう。もちろん、これもまったくの誤解。学校の価値観に引きずられています。

学校の作文は語彙力を測る意味合いもあるので、10代の人がちょっと知らないような四字熟語なんかを使うと、その点を高く評価されたはずです。しかし、学校を離れれば話は別です。難しい言葉を使えば、単純に読みにくいと評価されます。美辞麗句は並べすぎると安っぽいと感じさせてしまうことも覚えておいていいかもしれません。また、難しい言葉を使ったばっかりに本来の意図とは異なる解釈をされることもあります。学校では誤解して読んだら読み手の責任ですが、一般の社会では書き手の責任です。できるだけ平易にわかりやすく書くのが基本中の基本です。

しかしながら、ここで、「文章は読んでもらうもの」ということを再び思い出してほしいと思います。平易にわかりやすく書くのは基本ですが、読み手が難しく持って回った文章を好む場合があります(特殊な例ですが)。もし予め読み手にそうした傾向があることをわかっている場合は、敢えて難しく持って回った文章を書きましょう。そうした柔軟性は文章を書く上では非常に大切です。

また、少しだけ裏技的なことを紹介すると、実は美辞麗句を並べたてる文章は書くのは簡単です。ネットや雑誌などで見つけたそれっぽい言葉をつなぎ合わせれば、書けてしまいます。考えて書くというよりは、単に切り貼りしているだけなのですが、それっぽい文章に見えます。場合によっては、そうした文章を良い文章と(おそらく学校の影響で)評価されることがあるのも事実です。ですので、どうしても必要に迫られたら、裏技として書くのもありと言えばありです。

例えば、「立山連峰のなんと美しいことか。大自然という言葉では言い表せない大きさ、荘厳さ。私は畏怖の念すら感じる。思い切り新鮮な空気を吸い込む。まるで全身が洗われるようだ」。こんな感じですかね。何かを言っているようで何も言っていない文章です。抽象的な表現に終始していて、何一つ具体的な情報がありません。書くのに困ったらこういう文章でごまかすのですが、こういう文章は書き手も読み手もそのうち飽きます。何を良い文章というかは別途、詳細に述べることが必要だと思いますが、少なくとも、この場合は立山連峰に行った者でしかわからない具体的な話、自分ならではの切り口で書いたほうが良いです。ちなみに、私は立山連峰に行ったことはありません。

技術・ノウハウを知れば書けるようになる

以上、文章について、なぜ苦手意識を持つようになった原因、よくある誤解について解説してきました。言いたいことは、実は多くの人はこれまで文章の書き方についてまともに教わったことがないということ、学校という限られた範囲の中の価値観で上手いとか下手とか言われていただけに過ぎないということです。

今現在、文章を書けないと感じていたとしても、それは書き方を知らないだけの話です。技術やノウハウを学び身に付ければ必ず書けるようになります。上手い下手はあるにせよ、書ける書けないはありません。また、訓練すれば、文章は上達します

せっかく万年筆を持ち、これから何かを書いてみようと思った時、文章は苦手だ、書けない、などと思っていたら、もったいないような気がします。ぜひこれまでのことはいったん横に置き、文章を書いてみてください。技術やノウハウについては、このサイトで随時、公開していきます。ご期待いただければと思います。

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