夏休みが始まりましたね。この時期、書店に足を運ぶと目にするのが、課題図書と感想文の書き方の類の本です。夏休みの宿題の最難関の一つと言えば、読書感想文でしょう。そして、課題図書と感想文は本嫌いや読書離れ、あるいは作文への嫌悪感を醸成するもっとも効果的な手法だと個人的には思っています。興味の持てない課題図書を読むだけでもかなりの苦痛ですが、その上、感想文もとなると苦痛の上乗せです。
苦痛から逃れるために、これまた苦痛なのだけど、書店にある感想文の書き方の本を一冊手に取ってみる。そこにはちょろちょろと感想文の心得的なことが書いてあるだけで、大部分が過去のコンクール受賞作の紹介に割かれている。知りたいのは手っ取り早く書く方法なのだけど、そんなことはどこにも書かれていない。その結果、感想文の書き方も知らず、ただただ原稿用紙に向かい合うだけとなり、目を背けているうちに夏休みも終わりに近づいてしまう……。感想文との付き合い方の「王道」はそんなところではないでしょうか。
でも、2~3時間もあれば、さっと書けてしまう方法があるとしたらいかがでしょう。途端に苦痛から解放されるのではないでしょうか。最近では、宿題に出さないところも増えてきたみたいですが、対策法を知っておいて損はないと思います。ということで、感想文について少し解説いたします。
感想文は作文または小論文である。
まず誤解を解きます。感想文は本の感想(だけ)を書くものではありません。えっと感じるかもしれませんが事実です。そもそも面白かった、感動した、泣いた、だけでは話が続かないではないですか。加えて言うと、感想文は書評とも異なります。本の良し悪しを論じることは求められていないのです。
では、何を書けばいいのか。これについてはさまざまな考え方があると思いますが、私の理解では作文または小論文です。感想文は作文または小論文の変異種くらいに捉えておけばいいでしょう。もっと結論めいたことを言うと、感想文とは「本のあらすじ+感想一言+作文または小論文」です。つまり、感想文には作文型感想文と小論文型感想文があります。
あくまで作文または小論文がメインで、感想文の要素はおまけだと思ってください。作文や小論文に無理やり感想文の要素をねじ込んだと捉えても間違いありません。極端な話、以前どこかで書いた感想文や小論文を「再利用」することも可能です。
感想文に対する大まかな考えや概要は以上です。では、具体的な書き方をご紹介しましょう。
作文型感想文を書く方法
作文型感想文の最大の特徴は「体験」を書くことです。これは作文と同様です。少し違う点として、感想文の場合は本の登場人物(基本的には主人公)と自分を重ね合わせることが挙げられます。主人公が取った行動に対して自分の感想を言う。そして肝心なのは「自分の場合はどんな行動を取ったか」を書くことで、これが作文の部分に当たります。例えばこんな具合になります。「主人公はこういう行動を取った。それについて私はとても共感した。私も同じような体験をしたことがある。以下作文」となります。以下に作文型感想文の全体像を記します。
このうち、最後の「改めて主人公の行動の感想、未来への決意を述べる」とは文章の締めです。感想の部分は先に書いたことと同じで構いません。「主人公の行動は共感できる。私自身、これからもそうしていきたい」みたいな感じで文を閉じます。未来への決意を述べると、いかにも文が終わった感じがするのでとても便利です。以下に目安として文章の分量も表記します。
上記はあくまで目安です。メインの体験の部分が短くて全体に文字量が足らなくなったら、あらすじを増やすなど工夫が可能です。作文の書き方については、以前紹介したことと重複するので、以下のリンクをご参照いただければと思います。
小論文型感想文を書く方法
作文型感想文では「体験」を書きました。小論文型は「意見」を書きます。考え方としては「本のあらすじ+小論文」が小論文型感想文だと思っていただいてほぼ間違いありません。全体像を以下に記述します。文章の分量もあわせて記載します。
主人公の取った行動について自分の意見を述べる時は、賛否を明確にすると書きやすいです。「意見の根拠」の部分で賛否の理由を書き、自分だったらどうするかを明らかにします。最後には自分の意見をまとめて、もう一度本の内容に触れ、自分なりの結論を述べます。具体的に文章の形にすると
という感じになります。小論文は話の流れが決まっているので書きやすい側面があります。通常の小論文は一定の知識が必要になりますが、読書感想文は知識は不要です。その代わりに体験で補います。結局、作文型感想文とほぼ同じようになります。
なお、小学生では小論文を書く機会がそもそもないと思いますので、小論文型は高校生または中学生が使うと良いでしょう。小論文の書き方については下記のリンクを参考にしていただければ幸いです。
感想文を短時間で書くからくり。
私は2~3時間あれば作文は書けると言いました。作文に対する慣れの問題があるので、時間については多少の前後はあると思いますが、少なくとも数日がかりで書くものとのイメージは持たなくていいと断言します。また、この2~3時間に本を読む時間を含むのかというと含みます。速読をするのではありません。本を読むスピードが速かろうが遅かろうが書く総時間に大差ありません。なぜなら、感想文を書くために、本を丸ごと一冊読む必要はないからです。そのからくりを以下にご紹介しますが、ここからはあまり「教育的」ではないことを書きます。感想文を書く技法については、上記までにすべてを説明しています。これから先を読まなくても十分に感想文は書けるので、教育的ではない側面に嫌悪感を抱いてしまうようなら、読まずに飛ばしていただければ幸いです。
お断りしておくと、私は興味の持てない本を読むのは苦痛、本好きでもなかなか困難なことだし、本という素晴らしいものを嫌いにさせる、という立場に立脚しています。本を読むなとは言っていません。読書感想文用の本でも面白ければ読めばいいのです。その上で、感想文を書くためだけに、興味の持てない本を全部読む必要はないと主張します。感想文で必要な本の内容は、「あらすじ」と「何らかの感想を持った箇所」です。あらすじは誰が書いても同じになるべきものですので、頑張って自分で作り上げる必要はないでしょう。ネットなどを活用すれば、あらすじは調べることができます。調べられなかったら、最初と最後だけを読み「最初はこうでこういうことをし始めたが、最終的にはこうなった」と書くというちょっとした裏技もあります。物語は基本的に主人公が非日常に旅立ち日常に戻ってくるという構造となっています。つまり、最初と最後がわかれば、全体像は把握できるように概ねなっているのです。
また、本の「感想」を書く部分については、基本的に一場面について感想を述べればいいので、全文に目を通す必要はありません。もちろん、全文を読んだほうが理解は深まりますが、深い理解がなくても感想文は書けます。自分が何らかの感想を持った場面を早めに見つることを優先しましょう。さらに、ややおまけですが、感想を述べる箇所は際はなるべく後半の部分から見つけるのがベターでしょう。なぜなら、後半部分で主人公は「物語のテーマに関わる非常に重要な行動」もしくは「教育的な行動」を取るはずですだからです。その部分に「共感」して、自分なりの体験を書けば無難な仕上がりとなります。これが感想文を2~3時間で書くからくりです。
評価される感想文を書くには。
くどいほどに言いますが、ここで取り上げている感想文の書き方はあくまでスピードを重視して、素早く書き上げる手法です。締め切りまで時間がない、それなのに本も読んでいない、課題図書に興味が持てない、という状況を想定しています。優れた感想文を書く書き方ではないので、その点は誤解なくお願いします。また、あくまで想像の範囲ですが、評価される感想文とは「学校の価値観」に沿った内容だと思われます。つまり、「友情」「チームワーク」「慈愛」「自然」「弱者救済」「日本文化」「敬老」などを肯定的に捉えた文章は一定の評価を得られるはずです。逆に、これらのことを否定したり、学校ではあまり積極的に扱わない分野をテーマに取り上げたりすると、評価は得られにくいと考えられます。
さらに余談になりますが、課題図書は基本的に学校の価値観を肯定的に捉える内容となっているはずです(そうでない文章を読ませるのはちょっと考えにくい)。従って、学校の価値観を否定する内容は、学校が読ませたい、感じさせたいことの逆をいくわけです。よほどの根拠や強い思いがない限りは(仮にあったとしても)、本の内容を否定しないほうがいいでしょう。感想文で挑戦する必要はまったくありません。
ちょっとだらだら書きました。せっかくなので、感想文の実例を3本ご紹介します。いずれも、感想文の体裁を最低限整えているという程度の出来です。決して賞賛される内容ではありません。その点はご注意を。また、いずれもフィクションですが、自分で書く場合は実話を基にすることをお勧めします。今回、小中高生向けを意識した関係で全面的にフィクションにならざるを得なかったのですが、書くのにやや骨が折れました。実話は照れくさいかもしれませんが、どうしても照れくさい部分は書きやすいように変化させて構わないので、実体験をもとにすることを強く推奨します。
■例文その1
ブレない強さ
太宰治は青森生まれ、昭和初期の作家である。作風から新戯作派、無頼派と称された。『斜陽』や『人間失格』などの作品は名高いが、太宰その人やその生き様の方が、もしかしたらよく知られているかもしれない。特に二回の入水自殺は有名。太宰の遺体が発見された桜桃忌は毎年のようにイベントが行われ、ニュースなどでも話題になる。
その太宰の作品の中で『走れメロス』を読んだ。羊飼いの青年メロスは、人間不信の暴君ディオニス王に人を信じることの素晴らしさを教えるため、親友セリヌンティウスを人質に差し出し、決められた日までに戻ると約束した。幾多の苦難を乗り越えて期日までに王と親友のもとに戻り、王の人間不信を取り除くことに成功する。もしメロスが戻らなかったなら、セリヌンティウスが処刑されるところだった。
メロスはただの青年である。権力もなければ力もない。それにも関わらず、絶対の権力者であったディオニスに立ち向かった。その勇気は私の縮こまった背中を押してくれるようだった。
忘れられない思い出がある。中学3年の夏のことだ。休みの間、私はよく繁華街に遊びに行った。派手な格好をした男や女が何人もおり、大勢の大人たちに混じって街の中を歩くことが愉快だった。心のどこかでは「何かおもしろいこと」を望んでいた。武勇伝の一つでも作ってやろう、そんな思いすら抱いていたのだ。
学校の最高学年となった私は、気が大きくなっていた。成績は常に学年上位、体育も得意だったこともあって、私は目立つ存在だった。教室の中でいつも尊大な態度を取った。実力以上に自分を大きく見せようとして、ちょっとしたことでも針小棒大に語った。級友たちを半ば子分扱いしたが、誰も何も言わない。それどころか、事あるごとに持ち上げられた。ただAだけは、古い付き合いということもあり、特別扱いすることもなく私と接していた。
街の中は騒がしかった。何か起きそうな雰囲気はあるが、結局何もないことを、何回か街に繰り出した私はわかっていた。今思えば、街に通ったのも、大人に混じって繁華街をかっ歩した、と尾ひれ背びれをつけて語りたかっただけだろう。
その日もいつもと同じように過ぎようとしていた。だが、ふと路地裏に目をやると、私はAがガラの悪い連中に絡まれているのを見つけてしまった。しまった、という言い方がまさにふさわしく、体の大きい男たち五人がAを囲んでいた。Aは手さげかばん持っており、習い事か塾の帰りだったと思う。男たちと仲間のはずがなく、Aが何をされようとしているかすぐにわかった。助けなければ。Aには私が威張っているところも、大口をたたいているところも散々見られている。でも、足がすくんで動かなかった。
その瞬間、私はAと目があったように思えた。思わず下を向いた。この場を立ち去ろう。どうせ出ていっても、かなうはずがない。何を言われても、知らなかったで押し通そう。もし気づいていたら必ず助けた。そう言いさえすれば、私の威厳が損なわれることもないはずだ。
その場から去った私は、居心地の悪い夏を過ごした。Aに何か言われたらどう返したらよいのか。そのことばかりを考えていた。
ところが、予想に反し、Aは何も言わなかった。休みが空けた後も同じように私に接してくる。
「あの時のことだけど」
何も言ってこないAに対し、私はしびれを切らした。先に言い訳をするつもりで、あの時のことを持ちだした。しかし、Aは私を制止するように言った。
「誰だってああするよ。あれは自分で何とかしなければいけない場面だから」
Aの笑顔に私は負けたと思った。いや、勝ち負けではないのはわかっている。ただ、体も小さく、真面目でおとなしいAが、私よりも何倍も大きく、強く感じたのだ。
私はクラスの中で静かになった。それは、いつAに自分の意気地のなさを暴露されるか恐ろしかったのではなく、自分を大きく見せることの無意味さとバカバカしさに気づいたからだ。むしろ、Aのように自然と、誰の顔色を伺うでもなくいたいと思った。
強さとは何か。人として大きいとはどういうことか。一つ言えるのは、いつでも「いつもの自分」でいられることではないか。自分を大きく見せたいのなら、それでもいい。だが、大きく見せているのなら、それにふさわしい行動がいつでも必要になってくるということだ。それができるのなら、その人は強く大きい人間である。
メロスは正義感の強い人物だ。その正義感を正義感をふるいやすい相手にだけ示すのではなく、暴君にも向けた。強さであり、人としての大きさだと思う。
盛夏の真昼。ちょうど一年が過ぎ、メロスの勇気に、また強さについて教えてもらったように感じる。Aとは別々の学校に進学したが、今どうしているだろう。きっと彼らしくいるだろう。私は静かに『メロス』を閉じた。
■例文その2(小論文型)
約束を守ることの大切さ
太宰治は青森生まれ、昭和初期の作家である。作風から新戯作派、無頼派と称された。『斜陽』や『人間失格』などの作品は名高いが、太宰その人やその生き様の方が、もしかしたらよく知られているかもしれない。特に二回の入水自殺は有名。太宰の遺体が発見された桜桃忌は毎年のようにイベントが行われ、ニュースなどでも話題になる。
その太宰の作品の中で『走れメロス』を読んだ。羊飼いの青年メロスは、人間不信の暴君ディオニス王に人を信じることの素晴らしさを教えるため、親友セリヌンティウスを人質に差し出し、決められた日までに戻ると約束して自らは妹の結婚式に出席する。そして、幾多の苦難を乗り越えて、期日までに王と親友のもとに戻り、王の人間不信を取り除くことに成功する。もしメロスが戻らなかったなら、セリヌンティウスが処刑されるところだった。
メロスはなんとしてでも約束を守ろうとした。その固い意志に私は感銘を受け、奮い立たされる思いがした。
なるほど、メロスは後先を考えずに行動をするきらいがある。王に食ってかかるし、親友を人質に差し出した。批判もあると考えられるが、それでも、人を信頼し、約束を守ったことは、高い評価を受けるに値する。
信頼を得る。約束を守る。時に軽々しく口にすることもあるが、それは決して簡単ではないことをメロスは身を持って教えてくれたのだと思う。「約束と卵は壊れやすい」というたとえもある。しかし、どんな約束も絶対に守るべきもののはずだ。メロスは、人としてすべきことに忠実で真摯だった。
もし、私がメロスの立場なら、あるいは、セリヌンティウスだったなら、同じことができただろうか。
今、この日本という社会の中でもっとも大切であると同時に失われているものの一つが信頼であり約束だと言えるかもしれない。
その表れの一つが、紙に書かせることだ。何かにつけ、紙に文字を残し、記録を取ろうとする。人を信頼する代わりに、書面による証拠を残そうとする。
かつての日本には、人に対する信頼が社会の基盤としてあったように感じる。たとえ口約束であっても、守ることが前提であった。それには、「顔の見える、小さな社会」が背景にあったと思う。どこの誰であるかお互いにわかっていて、逃げも隠れもできない。約束は守って当たり前なのであった。
しかし、今はどこの誰ともわからない人との付き合いも発生する。面倒くさくなれば、雲隠れすることも簡単だ。このような社会では、信頼が生まれにくく、アメリカのような契約社会になるのも、時間の問題かもしれない。しかし、私は紙より人を信頼したい。紙ではなく人との約束を果たしたいと思う。
人を信じられなくなった暴君ディオニス。私たちは知らず知らずのうちにディオニスになっていないだろうか。メロスは改めて当然すべきことを教えてくれた。約束を果たすのは、特別なことではなく、人として当たり前のことだと。
■例文その3(小論文型)
メロスはとんでもヒーロー
太宰治は青森生まれ、昭和初期の作家である。作風から新戯作派、無頼派と称された。『斜陽』や『人間失格』などの作品は名高いが、太宰その人やその生き様の方が、もしかしたらよく知られているかもしれない。特に二回の入水自殺は有名。太宰の遺体が発見された桜桃忌は毎年のようにイベントが行われ、ニュースなどでも話題になる。
その太宰の作品の中で、『走れメロス』を読んだ。羊飼いの青年メロスは、人間不信の暴君ディオニス王に人を信じることの素晴らしさを教えるため、親友セリヌンティウスを人質に差し出し、決められた日までに戻ると約束して自らは妹の結婚式に出席する。そして、幾多の苦難を乗り越えて、期日までに王と親友のもとに戻り、王の人間不信を取り除くことに成功する。もしメロスが戻らなかったなら、セリヌンティウスが処刑されるところだったのだ。
正直に言って、私は、メロスの一連の行為にまったく共感できなかった。とりわけ、人質として親友を差し出したのは、とんでもないとしか言い様がない。
なるほど、確かに、メロスはそのタイトルの通りよく走った。親友を救うため、王の妨害や諦めようとの誘惑にも打ち勝ち、約束を守った。しかし、友人を窮地に追いやったのは、メロス自身である。
メロスは、友に犠牲を強いている。私と彼とは親友だから、と王の前で言われれば、どんな申し出も断れないだろう。その状況で、メロスはセリヌンティウスに人質になることを頼んだ。身勝手である。
真の友情とは、友のどんな頼みでも聞いてやることではない。まして、自分のために何かをしてもらうと期待するのはおかしい。むしろ、友のために一肌脱ごう、力を貸そう、とするものなのではないか。
もし私がメロスなら同じことは絶対にしない。仮にセリヌンティウスのような「親友」がいたらなら、その人は私をたしなめるだろう。「なぜ、そのようなことに私を巻き込むのだ。もっと計画的にできなかったのか」と。しかし、おそらく友は私に協力し、最終的には人質になってくれるだろう。それを知っているからこそ、なおさらこのような場面では呼び出せないのだ。
そもそも、メロスは怒りに任せて王のもとに出向き、しかも、妹の結婚式があることを知っていながら約束の日を設定し、さらには、妹に事情の説明もなく結婚式の日程を変更させている。
どんな人物だ。これで、走れメロス、なんて言って自らを励ましているのだから世話はない。
『走れメロス』は人を信じることや友情の素晴らしさを教えてくれる物語として一般には知られる。だが、本当は自己陶酔に浸り、人に迷惑をかける人間の物語として見てもいいのかもしれない。自分勝手を慎み、自分のために誰かを平気で傷つけていないか。注意したいと思う。
--例文は以上になります。
繰り返しになりますが、上記はあくまで「感想文の体を成している」という程度の内容で、高い評価を受けられるかは別です。内容より話の流れや型の部分を意識して、参考にしていただければ幸いです。
※小学生の目線で感想文を書こうと思いましたが、困難だったので諦めました。。。ご容赦ください。ですので、子どもの感想文のお手伝いをする時も、あくまで子どもの体験や感想を土台にしてくださいね。大人が完全に代筆すると大人目線の感想文になってしまいますので。