万年筆は字を上手に書くための道具、あるいは、美しい字を書く人が万年筆を使っている、という声を時折、耳にします。両者は突き詰めればほぼ同じことを言っており、少し角度を変えて見てみると、万年筆を使うからには上手な字を書かなければいけないという一種の使命感というか強迫観念とも言い換えられます。これに対する回答は圧倒的にノーで、敢えて言う必要もないくらいに誰が使ってもいい物です。もし仮にイエスなら、私などはもっとも万年筆を持ってはいけない一人となるでしょう。しかし、万年筆は字を上手に書くための道具という、暗黙の了解みたいなものがあるのも確かです。では、なぜ万年筆を使うからには上手な字を書かなければならないとなるのか、少し考えてみたいと思います。
奇麗な字を書くために万年筆を推奨されたことがある。
万年筆を使う一つの大きなきっかけとなるのは「履歴書を書く」ではないでしょうか。私自身、いよいよ就職活動に臨むに至り、就職課の方から「履歴書は万年筆を使いなさい」というアドバイスを受けました。意図として「これから履歴書とエントリーシートを数百枚と書くことになるから、腱鞘炎にならないために万年筆を使いなさい」ということでは決してないでしょう。「万年筆を使って奇麗な字を書きなさい」もしくは「万年筆を使えば奇麗な字が書ける」という意図が言外にあるはずです。つまり、奇麗な字を書くために万年筆を推奨してくれているのです。こうしたことがあり、なんとなく、万年筆を使えば奇麗な字が書ける、万年筆を使っている人は奇麗な字を書いている人だという図式が出来上がるのではないかと推測できます。
他にも、よくよく考えてみると、万年筆は書きやすい筆記具として紹介されることが少なからずあります。しかし、書きやすい=奇麗な字が書ける、では必ずしもないことには注意が必要でしょう。まったく無関係とは言いませんが、奇麗な字を書くには良い道具を使うこととは別に訓練が求められるはずです。
さらに言うと、万年筆との相性があります。ある人に書きやすい万年筆がある人にとっては書きにくいことがあるのも事実です。国内の3大メーカー(パイロット、プラチナ、セーラー)のフラグシップモデルなら、どれを選んでも多少の差はあっても書きやすさは実感できるはずです。しかし、輸入物を選んだり安価なエントリーモデルを選んだりしてしまうと、期待していた書きやすさが得られないケースも大いに考えられます。「万年筆を買う時は、専門店に行ってお店の人の話を聞きながら選びなさい」と、そんなアドバイスも同時にしてほしかったと思います。
私事で恐縮ですが、履歴書を書く際に万年筆を使うことを推奨され、素直に万年筆を買いに行きました。しかし、生協の売店で安易にエントリーモデルを選んだのがよくありませんでした。正直なところ、あまり書きやすさを実感できず、さらに履歴書を書くには字の太さが不適切に太かったため、要するに字の太さを確認もせず買ったのがまずかったのですが、万年筆はたいして書きやすくないとの結論を出し、すぐにボールペンに切り替えました。その後10年ほどは、書く時は当たり前のようにボールペンを使っていましたが、巡り巡ってまた万年筆を使う機会を得たのは、不思議と言えば不思議なことです。
自分の字を見せる機会が減っている。
ここから、万年筆と奇麗な字の関係から少し話題を逸らし、今の40代以下は字が下手である、下手でも仕方がないと、ある意味で言い訳じみた話をしたいと思います。多少大げさに表現するのであれば、現代と書き文字の関りを以下に記すことになります。
現代は文字を手書きする機会が一昔前に比べ圧倒的に減っています。これは、字を上達させる機会をなくしていると言い換えることもできるでしょう。同時に、現代は自分の書いた文字を人に見せる機会をほとんど失っている側面もあります。人に見せる手書きの文字と言えば、契約書類や郵便物、荷札に書く住所と名前くらいかもしれません。要するに、現代は字がどれだけ下手であっても、たいして苦労もしないし、恥ずかしくもないわけです。ただし、文字に触れる機会は減っていません。それどころか増えています。もちろん、インターネットの発達が大いに関係しています。現代はかつてないほど文字が飛び交っている時代とも言えるのです。
いつからこうした状況になったのでしょうか。キーワードはインターネットで、ほぼ確実に1995年にWindows95が世に出てからでしょう。Windows95以降、MicrosoftWordが急速に普及し、かつインターネットも当たり前の生活のインフラになりました。これに伴い、手書きする機会は減ったが、文字を見る機会は大幅に増えたのです。Windows95以前にもワープロや一太郎などの日本語入力ソフトがありましたが、広く普及するとまではいかなかったと感じています。思い返してみると、当時はブラインドタッチできることが大きな価値でした。しかし、今は多くの人が当たり前に持っている技術です。Windows95以前は書くといえば筆記具を持つことで、Windows95以降はキーボード(最近ではフリック)入力することに変わったとも言えます。
万年筆で書いた文字は基本的に自分が見る。
繰り返しになりますが、現代は文字を書く機会も見せる機会も減っています。このため、手書きすること自体がやや特殊な行為と言えなくもありません。だからこそ、自らの手で書くことそのものが、価値の高い体験ともなり得ます。
こうした状況の中、話題をやや強引に万年筆に引き戻し、万年筆とはどういう存在なのかを問い直したいと思います。従前は人に見せるための文字を書くための万年筆という側面が、少なからずあったでしょう。しかし、上記の通り今は人に自分の書いた文字を見せる機会そのものが減っています。氏名や住所は手書きすることもありますが、それだけのために万年筆を持つのはちょっともったいない。
では、いつ使うのかというと、これもう普段、いつでも、という他ありません。結論としては極めて当たり前になって恐縮なのですが、万年筆を特別扱いせず、日常的に使う道具とすることが接し方として求められるのではないでしょうか。何と言っても、今は書くことが特別な行為なわけです。その特別で希少な行為をするのに万年筆を使うのは大いにありだと思います。
万年筆で書いた文字を見るのは、基本的には自分です。自分が書いて自分が見るのだから、それが暗号のようだろうが象形文字のようだろうが、何の問題もありません。私などはクライアント先で自分のノートにメモを取る時は、敢えて判別不能な文字を書きます。何をメモしているのだろうと気になるのは仕方のないことで、時々ノートをちらりと見られます。その時、言ったことをただメモしているだけなら問題ないのですが、感想や疑問点、自分なりの考えをメモすることもあるので、それを見られるのはちょっと抵抗があり、字を崩します。だから字が下手になった、などと言うつもりは毛頭ありませんが、下手なままで良しとしていた面はあります。ただ、自分の字を見てさすがに下手過ぎるだろうという思いを持つようになりました。最近は、字の勉強を始めようと考えています。
今回はやや取り留めもなく話を進めました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。万年筆はそういう道具なんだなと少しでも共感していただけるところがあれば、とても嬉しく思います。